昭和から平成にかけての手帳版下の作り方①

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こんにちは。渡辺です。

私がこの会社に入った30年前(1990年前後)は手帳本文版下を作るのに今日のようにキーボードで文字を打ちパソコンに保存するということではありませんでした。その当時は写真植字機と言われる機械で光源ランプからの光を利用して左右が反対の文字部分のみが透明になったガラス製の文字盤、級数レンズ、変形レンズの順で通り、オペレーター正面右のハンドルを押し下げることで、文字盤を固定しシャッターが切られ、暗箱に入った印画紙に植字される仕組みで本文印刷をする元の版が出来上がりました。

“ 万能写真植字機「MC-101型」 ” 株式会社モリサワ 歴史・沿革 より転載https://www.morisawa.co.jp/about/history/

“ 「中明朝体AB1」 の文字盤 ” 株式会社モリサワ 歴史・沿革 より転載https://www.morisawa.co.jp/about/history/

当時私は写真植字機を揃えている会社に1日に何度も通い、できた印画紙を受け取りに行ったものです。その部屋は常にハンドルを押しさげる「ガチャンガチャン」の音が響いていました。文章になっている版は印画紙という紙なので、一度文字が印画紙に焼き付いてしまうと消しゴムで消せるものではありません。

今日のようにデータ化したものではなかったので、1文字、たとえば数字を1から2に訂正する場合は、その1という文字をカッターで削り取らなければなりませんでした。それが数十か所あるとその作業は数時間と掛かりました。字間がない場合はとなりの文字を間違って切ってしまうこともありました。その時に訂正した2は新しく印画紙に植字してもらい、訂正部分にその2の数字をペーパーセメントと言うシンナーの匂いのある「のり」のようなもので貼って修正しました。さらに1行追加、2行追加となった場合は、1頁の入る行数は限られているので、その場合は全頁を限られた行数にするため測りながら1頁にする作業をしました。

“ ペーパーセメント Sコート(片面塗り)”福岡工業株式会社より転載  http://www.fukuoka-ind.com/papercement..html

1本線を引く場合も一苦労でした。今はパソコンで線の太さも自由に選択して一瞬で引くことができますが、当時は印画紙に自分の手を動かしてペンで線を引きました。3センチ引く場合でも一定の太さで引くことが難しかったことを今でも忘れません。

手帳の場合は1冊で数十頁から数百頁にもなりますので、その作業は深夜に及ぶことも多々あり大変だったことを思い出します。また、印画紙を切ったり、貼ったりの作業は透写台という下からライトで照らしガラスのテーブルを明るくしての作業でした。

透写台 当社の事務所で現在も現役で使用しているもの

今はパソコンの操作に器用、不器用はあまり関係なく、操作方法さえわかれば誰でもできると思いますが、当時の切り貼り作業は器用不器用がはっきりでました。不器用な人は指を傷つけることも多々ありました。

少し前は「文字化け」なんて言葉があり、パソコンの不具合で不明な文字が表れてしまうことがありましたが、今思えば写真植字機に関しては文字化けすることは無かったので、後で文字化けでのトラブルはありませんでした。

今は大変便利な世の中になりました。これから先どんな便利な世の中になるのかが楽しみですが、人を必要としない世の中になってしまうのではないかという、寂しい気持ちになってしまうのは私だけでしょうか。

続きはタグ「手帳版下」からご覧ください。

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