近代前期の天文暦学 その7

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こんにちは、渡辺です。

「近代前期の天文暦学 その6」の続きになります。前回はタグ「天文暦学」からご覧下さい。

貞享暦の特徴として、一つは授時暦を基礎としており、あくまでも中国の伝統的暦法である太陰太陽暦です。しかし、経度差を考慮して、地震の観測を加味して京都を通る子午線を基準としています。もう一つは、日と月などの天体運動を計算する常数と西洋天文学を説いている『天経戓問』(天文書の一つ)から得ています。貞享暦は天経戓問と授時暦を併せた漢との折衷ものと評することが言えます。

春海の思想は『天経戓問』をあくまでもテクニカルなものとして把握しています。また、経度差を採用したことは地体球形説を学術的に承認したことを意味します。授時暦は一年を365.2425日としていたのに対し、貞享暦は一日を365.2417日と小さく定めています。日と月などの天体運動を計算する常数と経度差を採用したことは科学思想史上からも重要です。そして、最も強調されるべきことは、貞享暦が日本の独力により編まれた暦であるということ、中国の暦法を日本的に転用したということであって、この事が春海の著書を含めて貝原益軒の『大和本草』(中国の薬物についての学問書)などとともに日本的性格をもつ自主的な経験科学かつ実学として、さらには元禄文化の一環としての位置を得させる所以であります。そして政治的には徳川幕府の暦政策を確立させ、封建制補強の一端を荷ったのです。

幕府は渋川春海を碁所より新設の天文職へ転任させ、切米百俵(江戸時代、給地を持たない武士に主君が支給する俸禄米のこと)を支給されることになり、年々上がっていきました。天文職はやがて天文方と改称され、春海は初代天文方となりました。天文方は旗本格でありました。春海ののち渋川家は代々天文方を勤めましたが、次代以降は短命者が多く、また学力も低下しました。

そして、宝暦改暦に際して編暦の実権は土御門泰邦に奪い返されてしまいました。またのちに天文方の職能もオランダ書、さらには外交文書の翻訳にまで拡大され変化しました。こうした状況変化のうちにも、天文方筆頭としての地位を渋川家は保ち続け、途中で断絶した諸家を除いて、山路、吉田、足立の三家とともに幕末まで存続し、天文観測を継続して行われました。天文方には渋川家のほか、幕末までに猪飼家、山路家、西川家、吉田家、奥村家、高橋家、足立家の計八家が任命されました。しかし一代限りの者もあって明治に変わるまで存続していたのは渋川、山路、足立の三家となりました。

江戸時代には、そのあと「宝暦の改暦」(1755)、「寛政の改暦」(1798)そして「天保の改暦」(1844)の全部で4回の改暦が行われました。江戸時代が終わり、明治維新(1868)によって樹立された明治政府は、西洋の制度を導入して近代化を進めました。その中で、暦についても欧米との統一をはかり、明治5年(1872)11月、太陽暦(グレゴリオ暦)への改暦を発表し、採用されましたが、準備期間がほとんどなく、明治5年12月3日が新しい暦では明治6年1月1日になってしまったので、国内は混乱しました。しかし、福沢諭吉などの学者は合理的な太陽暦を支持し、普及させるための書物を著して混乱を避けました。

現在私たちが使っているカレンダーは太陽暦によるものですが、その中にも大寒、小寒など古来の太陰太陽暦で使われた季節を現す言葉が残っています。毎年新しくなる暦ですが、人間の歴史と文化がその中に刻みこまれているといえます。

これまで明治前日本天文学史を7回まで続けてきましたが、以上で日本の天文学の歴史は終了となります。長い間ありがとうございました。

 

参考文献 明治前日本天文学史
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