活字印刷機のはじまり

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こんにちは、渡辺です。

 

日本文化史上で注目する出来事は活字印刷機を海外から持ち帰ったことが上げられる。持ち帰った時代は戦国時代の大友・大村・有馬の九州三大名が派遣した、いわゆる天正遣欧使節団の時である。天正遣欧使節団とは、ローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団である。この使節団はイエズス会員であるアレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案し、召集された。1582年(天正10年)に長崎を出発し、1590年(天正18年)8年の歳月を経て長崎に帰着した。

この使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られるようになり、マカオに滞在中には「天正遣欧使節記」を印刷機で刷り、その印刷機を持ち帰った。また、持ち込まれたのは印刷機だけではなく職人も同行していた。

ヨーロッパにおける活字印刷術がグーデンベルグの発明であることは有名だが、その発明のポイントは3つある。1つ目は活字を鉛合金で鋳造したこと。2つ目は版画押圧による印刷方法を確立したこと。3つ目は油性の印刷インキを使用したことである。その後、部分的な改良はあっても根本的改新はなく19世紀まで使用された。天正18年に使節一行が持ち帰った活字印刷機について詳細に知るすべはないが、ヨスト・アマン(スイスの木版、銅板画家)の版画に示されているものとほぼ間違いがないであろうとされている。

また、ドイツの印刷者ダンナーが1500年に改良した平圧式のものとする説もある。その機械は横10cm縦14cmの本文印刷面を4頁分同時に刷ることができ、活字はローマ字で16世紀後半頃ヨーロッパ活版業の中心地であったオランダ(現ベルギー)のアントワープで盛業中のブランタン家の製品であろうと言われている。字体についてはベネチアのニコラス・ジョンソン考案のローマン体であると言われている。

この印刷機は初め島原半島の加津佐の学林に据え付けられて天正19年にローマ字綴りの「サントスの御作業」(ローマ字書きの日本語文で、十二使徒を始めとする諸聖人の伝記を収めたもの)を印刷し、活用されたが1598年(慶長3年)以後は長崎で使用された。これが日本におけるヨーロッパ式活字印刷術の始まりである。

印刷事業としては天草・京都でも行われ、日本語・ラテン語・ポルトガル語などで教理書・文典・辞典・日本古典文学を印刷した。

その総数は30余種で、これらをすべてキリシタン版と称している。特記すべきことは、1600年(慶長5年)以後、印刷は長崎の後藤登明印の手にゆだねられたことである。また当初は持ち込まれた洋式活字を使用したが、後には国字(日本用漢字)を木活字で使うようになった。こうして、この印刷術は当代の人士に技術的にも大きく影響したと思われる。

この活版印刷が16世紀から19世紀の300年近く使用されていたということは、世界中がこの印刷術を高く評価していたといえるのではないだろうか。

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