こんにちは、渡辺です。
「近代前期の天文暦学 その5」の続きになります。前回はタグ「天文暦学」からご覧下さい。
寛文7(1667)年、渋川春海は保科正之に招かれて会津に赴いて滞在した際、暦について講じたことが契機となり、正之は春海を改暦の適任者と認め、その死去にあたり老中稲葉美濃守宛に、春海に改暦を命ずるように遺言しました。こうして延宝元年安井算哲の名で改暦を献言し、宣明・大統・授時の三暦による向こう3年間の日月食推算結果を「蝕考」(日本書紀が用いた暦法について研究した『日本書紀暦考』)として添付しました。しかし、2年後の5月1日の日食では宣明暦のみが的中したため、改暦は中止となりました。
春海は『天経戓問』(江戸中期、中国から輸入された天文学。地理・気象が書かれた書物)から日本の経度を基本として天体の運動を定める常数を得て暦を補正した上で、天和3年水戸光圀の後援のもとに再度改暦を献言し、前回と異なり自作の大和暦が採用されることを願いました。同年11月に起きた月食は、宣明暦に記載されていなかったために改暦推進の機運が高まり、勅令により土御門泰福と急ぎ上京した春海は改暦について相談しました。
貞享元年3月3日、朝廷より改暦裁可とあわせて大統暦を用いることを命じられました。これに対し春海は三回目の献言をしました。大統暦は中国の暦法であり、太陽年の長さが長年の間に変化することを無視していました。また、暦とは使用する地域に適するように作るべきであって、日出日没を見ても解るように異なる二地点では里差がありました。こういうことを無視している大統暦を採用するべきではないということでした。
同年10月に朝廷は春海の作成した大和暦を採用して、またこの暦を貞享暦と命名することを宣下しました。こうして貞享の改暦は成功しました。成功の原因として三上義夫は次の七条をあげました。
- 春海が天文暦学の発達しつつあった機運に乗じて出てきたこと
- 若年より諸所を旅行して天文観測に努めたこと
- 授時暦をよく理解し、これに基づいて里差を考え中国の元都と京都では時間に前後のあることを計算し、観測によって得るべき結果を使用して、地理的に適当な暦法を根底から作ったこと
- 幕府の碁所にあって江戸と京都の貴顕紳士に接してその助力を仰ぐことができたこと
- 神道兵法に通じていたため水戸会津両侯の信任を得たこと
- 江戸に定住せず、年内の半ばは京都にあったため、山崎闇斎などの関係もあり、京都に勢力の信望を得たこと
- 年少者の陰陽頭泰福に師事してその信頼を得たこと
このことにより、貞享暦が進展しました。
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